out of control  

  


   11

 ふと目が覚めたら、健康的に陽に灼けた分厚い胸板が目の前にあった。
 一瞬どうしてこんなことになっているのかがわからなくて、ぼんやりしたまま視線を上げる。まず太い首が見えて、がっしりした顎が見えて、最後に気持ちよさそうに熟睡したティバーンの顔が見えた。
 あぁ、そうか。またティバーンと寝たんだな……。
 当然のように背中を抱く腕の温もりが心地よくて、俺はほとんど無意識にごそごそと柔らかい毛布と布団の中にもぐりこんだ………んだが、ちょっと待て。
 ここはどこだ!?

「んあ?」
「おいッ、起きろ、ティバーン!」

 カーテンの隙間から入る光は、明らかに昼に近い。がばっと起きて呑気なティバーンを揺さぶると、ずいぶん間を置いてまだ眠そうな目が開いた。

「くそう、いい夢見てたってのに……どうしたよ?」
「どうしたじゃない。なんで朝なんだ!?」

 しかも、いつの間に俺たちは上着だのブーツだの脱いだんだ?
 青くなる思いでさんさんと光が差し込む窓を指すと、ようやく頭がはっきりしてきたんだろう。ティバーンもむっくりと起き上がった。

「本当に、なんで朝なんだ?」
「俺に訊くな! それにあんた、酒臭い!!」

 首を傾げて俺を見たティバーンの全身から立ち上る匂いに怯んで水入れを投げるように渡すと、ティバーンは首をかしげながら水差しから直接たっぷりと水を飲んで一息ついた。

「ちゃんと沸かした水だな。美味いぜ。おまえも飲むか?」
「飲むに決まってるだろう! 直接飲むな。腹を下す元になる」
「そうかあ? 俺はこんなことで下したことねえけどなあ」
「……俺とあんたの腹をいっしょにしないでくれ」

 飲んだ量はずいぶん違うが、俺が飲んだ酒も軽いものじゃなかった。もしかしたら俺も酒臭いんじゃないか? そう思っていつもより多めに水を飲むと、俺は厚手の絨毯の上に転がった自分の上着とブーツを見つけて慌てて身に着けはじめた。

「どうなってるんだ? いつ脱いだか全く記憶にない」
「あ? ああ、思い出した。そういや昨夜、おまえが先に寝ちまったんだ。あんまり気持ちよさそうに寝てるからよ、もうちょっと寝かしてから連れて帰るかと思って上着とブーツを脱がせたんだよな」
「それならその辺りに放り投げずにせめて椅子にかけてもらえませんかね? ……じゃなくて、だからってなんであんたまで寝てるんだ? 普通、寝る前に起こすだろう!?」
「おまえの寝顔を見てたら俺も眠くなったんだよ。それでまあ、ちょっとだけだな」
「あんたの『ちょっと』は昼過ぎまで寝ることかッ!?」
「あー、まあ、王だって寝坊する時はするからなァ……」
「最悪だ…! そんなもの、俺はしたことがない」

 頭を抱える思いでまだ悠々と座ったままのティバーンに重い上着を投げると、「そりゃおまえが寝坊しそうな時はニアルチが起こすからだろ」なんて言いやがる。
 半分は事実だが、体調に問題でもない限り俺は寝坊なんて無様なことはしなかった。大らかを通り越して大雑把なこいつに言われるのは、甚だしく不愉快だ。

「とにかく、宿に戻るぞ」
「わかったからそう急かすなよ。ベオクのものにしちゃきつい酒だったからな。さすがにちょっと頭が重い気がするぜ」
「『気がする』だけなら本当に気のせいだ。行くぞ!」
「はいはい」

 放っておいたらそのまま二度寝しそうなティバーンを強引に寝台から立たせて、俺は厚みのある扉を開けて階下へ急いだ。他の客の気配はない。どうやら、俺たちで最後みたいだな。

「おはようございます。ゆっくりでしたねえ」
「おう、おかげさんでのんびりできたぜ」
「それはようございました」

 受付にいたのは昨夜と同じ老婆だった。曲がった腰を伸ばして長身のティバーンに笑いかけてから、小さな眼鏡越しの視線を俺に向ける。
 ……金を払うのはティバーンなのに、俺にまで挨拶するのか? なかなか丁寧な応対だな。

「部屋はどうでした?」
「特に問題はないな。いい寝台だった」
「少し狭いですけれど、寄り添うには丁度でしょう?」
「あぁ、それは確かに……」

 なるほど。そんな見方もあるか。宿の経営も奥が深いな。
 夫婦や恋人同士が泊まるならほんの少し狭い方がいいのかも知れない。

「またどうぞご利用ください」
「ありがとうよ、世話になった」

 この宿は純粋に利用した時間分料金が取られるらしい。……今ティバーンが払った金額から考えると、これだけ長い間いたら同じ程度の宿でも一晩でいくらの宿の方が安いな。
 宿を出るとすっかり高くなった太陽の光が、まだ溶けていない雪に反射していた。眩しさに目を細めながら、俺は疲れた気持ちで重いため息をつく。
 いや、実際疲れていた。なにがって、昨夜はあんな形で部屋を出たのに俺たちが揃って一晩帰らなかったんだ。あのリュシオンがどんな形相で出迎えるかと思うと……。

「お? おいネサラ! 羊の串焼きだぜ。へえ、美味そうじゃねえか。あっちは芋と腸詰の網焼きだな。いい匂いだぜ!」
「………なんであんたはそんなに元気なんだ」
「俺はいつでも元気だろ。見ろよ。すっかり昼時じゃねえか。くそ、朝飯は食い損なっちまったなあ」
「心配しなくても、昨夜の分で優に三食分はあったさ」
「晩飯は晩飯だろ。いくら食ったって次の朝飯分になるかよ」

 野放しにすればそのまま香ばしい匂いを振りまく屋台に行きそうなティバーンの腕を掴んで引き止めると、俺はそれ以上なにも言わずに宿に向かった。
 もちろん、未練たらたらに屋台の列を何度も振り返る図体のでかい王冠つきのガキ大将を引きずりながら。

「―――ずいぶん早いお帰りだな、ネサラ。朝まで掛かる夕食とは、ずいぶんと手の込んだ料理の数々だったのだろうな?」

 宿の扉を開けるなり掛けられた厳しい声の主は、当然ながらリュシオンだった。
 翼をしまい、質素な服を身に着けても隠せない、絶対の気品と威厳と威圧をこれでもかとあふれ出させ、華奢な腕を組んで仁王立ちで俺たち二人を出迎えてくれた。

「いや、もちろん夕食にそこまで時間を掛けたわけじゃない。少々酒が過ぎたんだ」
「いつでも過ぎるほどに自戒の厳しいネサラが? おまけに、あなたまでですか? ティバーン」
「おう、面目ねえ。なに、ちょっと二人で一杯引っ掛けて帰るつもりが、うっかりそのまま寝ちまってよ」

 俺は嘘は言っていない。真実を見通す緑の目に睨まれたティバーンはいかにも怪しい言い訳を並べ立てたが、これもまあ嘘じゃない。リュシオンの後ろから心配そうにこちらを覗くオスカーと、恐らく正直に俺たちと別れた後のことを話しただろうアイクがなにか言いかけて口を閉ざし、俺はそんな二人の様子に苦笑した。
 俺たちのことは自業自得なのに、お人好しだな。そう思ったんだ。

「本当に心配しましたよ。でもまあ、二人とも無事でしたからもう良いです」
「わかってるさ。悪かったな、リュシオン。ネサラだけでも先に帰すべきだった」
「先に帰るのは俺よりもティバーンだと思うが、すまなかった」

 最後にため息をついて腕を下ろしたリュシオンに口々に謝ると、やっと笑顔になって「もういい」と首を振る。
 強情で曲がったことを許さない性格だが、こんなところは素直で助かる。もちろん今回は嘘は言っていないからいいんだが。
 やれやれ、これでやっと落ち着けるな。とりあえずティバーンの腹の虫がうるさいから先に昼食を食べさせなきゃならないが、さてどこで……。

「お話は済みましたか?」

 食べさせようか、なんて考える間もなかった。
 待ちかねたと言わんばかりに二階から降ってきた氷のように冷たい声は、グレイル傭兵団の誇る小さな軍師、セネリオだ。
 こちらももう来てたのか。まったく、今日はついてないね。

「どうも。わざわざ待っていてくれるとはね。お早いお着きだったようで」
「徒歩ではさらに数日かかったでしょうが、今回は鷹の民の力をお借りしましたから。では、こちらへお願いします」

 階段の上に立っていた黒い少年軍師は、紅い目でちらとアイクを見て俺たちの返事も待たずに踵を返した。
 相変わらず愛想のない奴だ。まあ、大方こんな時期に呑気にしてる俺たちに呆れたんだろうが。

「………こりゃあ、飯が食えるのはいつになるかわからねえな」
「一日や二日食事が取れなくてどうこうなるほどやわじゃないだろ。行くぞ」

 先に階段を上り始めたアイクたちを見送りながらぼやくティバーンの背中を叩くと、俺も二階に続いた。
 セネリオが選んだのは俺とリュシオン、ティバーンが泊まる予定だった部屋だ。
 中には俺たちを待っていたらしいガトリーとシノンもいる。二脚しかない椅子は王であるティバーンとリュシオンに勧めて、セネリオは小さな机の上に古い地図を広げた。

「これをご覧ください」

 だいぶ痛んでるな。それに、インクも薄くなってる。これが書かれてから誰も写しを取らないままここまできたって感じだ。

「こりゃあ……どこの地図だ? テリウスのものにしちゃあなんだか形が妙だな」
「ですが、間違いなくテリウスのものですよ。見てください、ティバーン。フェニキスとキルヴァスが大陸と繋がっている形になっています」
「まさか、あの大洪水の前のものか?」

 それだけじゃない。いくつか地図とは形の変わった地形を思い出して訊くと、セネリオは「そうです」と深く頷いた。
 ………驚いたな。まさか、前時代のものが残ってるとは。なにより、こいつは一体どこでこんなものを手に入れたんだ?

「神々の黄昏、女神の嘆き、人々の黎明――あの大洪水については各地で様々な名で呼ばれていますが、これはその前の時代に栄えた文明の遺産のようなものです。ある方からお借りして参りました」
「ある方、ね」
「ええ。『ある方』です」

 鼻を鳴らして小柄な軍師の紅い目を見ると、向こうも可愛らしい顔に似合わずふてぶてしい笑みを浮かべて俺に相槌を打った。
 まあ、大体の想像はつくな。恐らくその相手は長い黒髪で、鴉の俺と同じかもう少し体格の良い、俺たちのご先祖さんだろう。

「どうしてそんな紛らわしい言い方をするんだ? つまりそれはセフェ……」
「ああわかった。『ある方』ってことにしとけって、そういうことだろ?」
「ええ。察しが良くて助かります」

 せっかく名を伏せてたってのにリュシオンが不思議そうに言いかけて、ティバーンがでかい手で口を塞ぐ。
 ティバーンの手がもう少し遅けりゃ俺がやってたところだ。
 ベオクの社会じゃばればれでも敢えてトボけなきゃならないことがあるってのは、リュシオンもそろそろ覚えた方がいいな。

「それで、その地図がどうかしたのか?」
「ここをご覧ください。ここが現代のベグニオン、女神の眠っていた塔がここに当たります」

 ティバーンの問いかけに、華奢な指が地図の一点を指す。まだ話が見えないな。
 一体なにが言いたいんだと思って見ていると、そのセネリオの指先にぼんやりと光が灯る。セネリオの魔力だ。
 その光を帯びた指先が女神の塔のあった場所に触れた瞬間。

「なんだ…!? わかるか、リュシオン?」
「地図に魔力が込められて……いえ、魔力が残っているようです」

 地図自体が淡い金色に発光して、その光が奇妙な模様を描き出した。
 驚いてるのはティバーンとリュシオンだけじゃない。アイクたちはもちろん、俺だって同じだ。
 その模様は、テリウス大陸を包み込むような鳥の形だった。やがてその形が薄れ、今度は青い光に変わる。真昼のような青じゃない、夜明け前の空に似た深い色だ。

「……ネサラの色だ」

 リュシオンの小さな声に、俺に視線が集まった。

「いや、色だけだろう?」
「おまえの力と同じだ。強くて、優しくて、悲しい……黒鷺の持つ魔力の光なのだから」
「強いはともかく、後の二つは余計だろ」

 陶然と光に見とれるリュシオンの言い草に気恥ずかしくなって文句をつけると、俺は徐々にその光が集まり始めた部分に視線を戻した。
 小さな点がちらほらあって、…でも三つはやけに大きいな。
 一つはオルリベス大橋、もう一つはナドゥス城の辺りか? 最後の一つは確か……。

「この位置はデインの…! セネリオ、どういうことだ?」

 現在の地図と場所を照らし合わせながら考えていると、先に気づいたらしいアイクが固い声音で訊いた。

「はい。あの待ち伏せでクリミア兵五千と、デインの将兵の多くが死んだ渓谷です」
「……大きな光の部分は三箇所とももっとも戦死者が多かった場所だな。この光の意味はなんなんだ?」
「文字通り、死者の数を表しているものと言った方がわかりやすいでしょうね。正確には、その場に滞った『負』の気配の強さを示すものですが」
「『負』の気配……?」

 俺の質問に答えたセネリオに、リュシオンが細い眉をひそめて首を傾げる。俺も似たような心境だ。まだセネリオの意図がわからないからな。

「『正』の力と、『負』の力。どちらが強くなりすぎても均衡は取れません。たとえば『正』には希望や祈りが含まれますが、望まぬ戦で死んでいった人々の残した怨嗟、悲哀、そういったものは『負』の力になるのです。そしてそれは魔道の力にも通じる」

 淡々としたセネリオの言葉を聞いてもアイクたちやティバーンは顔を見合わせるだけだが、リュシオンと俺は揃って表情を固くした。
 光の集まった場所には、多くのラグズが死んでいった場所もある。
 一つ息をついて薄汚れた地図に視線を落とすと、俺は努めて感情のない声で訊いた。

「つまりこの光の集まったところに、『負』の魔力の場ができてるんだな」
「そうです」
「あの泥人形たちは本当に、ベオクか」
「ええ。ラグズが泥人形として現れなかったのは、ベオクとラグズの帯びた魔力の質の差でしょうね。彼らに残るのは恨みでも怒りでもなく、恐らくはただ一つ、故郷へ帰りたいという願いでしょう」

 たとえ、泥の身体になっても――。
 戦争をしたがってるのはいつだって上の連中だけで、兵士たちは……特に民兵は無理やり徴兵されて戦場に放り込まれるだけだものな。
 それは、騎士の連中にだって言えることかも知れない。

「待てよ。それはおかしくねえか? 連中は明確な殺意を持ってオレたちを狙ってきたじゃねえか。帰りたいだけならわざわざそんな真似する必要ねえだろうがよ」
「帰りたいという思いを利用されてるんですよ。僕が調べた結果、過去の二度ともこういった怪物は出ましたがいずれもベオクで、大きな被害は出していません。被害者は皆怪物の身内と思われる者たちでした。恐らく、死者が心を残した相手により執着した結果だと思われますが、今回は違います」
「術者がいるんだな?」
「はい。恐らくは……」
「誰だ?」

 シノンの疑問に答えたセネリオに、ティバーンも強い声で訊く。
 俺の緊張を感じたんだろう。ほっそりした手が俺の手を握った。
 ……俺は大丈夫だ。
 口で答える代わりに心で呟くと、リュシオンの手により力がこもった。

「はっきりとはわかりません。ですが、優れた魔道使いなのは間違いないでしょう。目的ははっきりとはしませんが、恐らく狙いはベオク側……でしょうね」
「ラグズに危害を加えることはねえってことか?」
「邪魔をしない限りはといったところだと思いますが。それから、この先の渓谷付近では騎士そのものが怪物となってさ迷っているそうです」
「騎士そのもの? どういう意味だ?」

 今度は俺の番だ。淡々と話すセネリオに問いかけると、セネリオは同じく問いかけるような視線を寄越したアイクに頷いて続けた。

「言葉通りです。あの時犠牲になった騎士たちはなるべく弔いましたが、岩の下敷きになった者までは手が回りませんでしたし、デインの兵については野ざらしに近い状態のまま放置する形になりました。あの辺りは特に気温が低い上に土は粘土質。腐敗することもなかったでしょう」
「えー!? じゃあ、骨に泥がくっついてじゃなくて、まさか死体がそのまま動いてるってことかあ!?」

 叫んだのはガトリーだ。すぐにオスカーが「不謹慎だぞ」と窘めたが、皆の表情は一様に沈んだ。
 それはそうだ。俺はその戦いを直接は知らない。だが、酷いものだったことは聞いてる。
 惨い死に方をした者たちを、もう一度殺さなきゃならないってのは本当に気が重い話だ。

「彼らは、未だに安らげずにさ迷っているんだな。無理もない。……私の呪歌で、少しでも鎮めることはできないだろうか? 本当なら兄上か父上が行くのが一番だろうが、そこまで『負』の気が強いなら難しいかも知れない」
「そうですね。……やってみる価値はあると思います」
「どっちにしても問題の親玉を片付けねえことには、死人の数だけ戦力があるってことだろ。……胸糞の悪い話だぜ」

 ティバーンの唸るような言葉にアイクも頷いて、気まずい沈黙が降りる。
 相手がなにを考えてるのかわからないが、今はもうベオクだけの問題じゃない。
 死んだはずの敵が蘇って襲ってくるというのは女神との戦いでもあったことだ。だから、相手はきっと女神に近い力の持ち主ってことなんだろう。
 ラグズではなく、ベオクに恨みを持つ者で、それだけの力の持ち主か……厄介だな。
 しかし、それならなぜ俺の力はなくなったんだ? それに、あのルカンはどうして……。
 虚ろな、まるでぽっかりとそこに空いた穴のようだったルカンの目を思い出すと、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。

「ネサラ、大丈夫か?」

 リュシオンに伝わったんだな。緑の目に気遣わしげに覗きこまれてなんとか笑みを浮かべて頷くと、俺は丁寧に地図を畳んでちらりと俺を見たセネリオに向き直った。

「察しがいいですね」
「俺になにか言いたそうだと思ったんでね」
「僕よりまずそちらでしょう。質問があるなら答えますよ」
「クリミアと、皇帝にこの話はしたのか?」
「ええ。しておきました。その流れでこの地図を借りられたんです」
「不思議な地図だな……。拝見しても?」
「まあ、あなたなら大丈夫でしょう。どうぞ」

 駄目元で訊いてみたんだが、セネリオは少し考えてもう一度あの古い地図を取り出した。
 前文明の遺物か……。こんなことがなかったら好事家に高く売れたろうに。
 もうそんなことを考える必要はないのに、これも身についた習慣だな。念のため手巾越しに受け取った地図を眺めながら、俺はしみじみと考えた。

「私が触っても光るのか? ネサラ、どう思う?」
「さてね。俺の手には特に反応しなさそうだが……って、そうでもないか」
「ほう、俺だと無理か?」
「鳥翼王は触らないでください。古くて脆くなっていますから、もしものことがあったら困ります」

 遠慮のないやつだ。
 無造作に手を伸ばしたティバーンをぴしゃりと止めたセネリオに笑いながら、俺は色褪せた地図をそっと広げて見た。

『………さま………』

 なんだ?

「ネサラ? どうした?」
「え? いや……」

 指が触れた瞬間、小さな声が聞こえたような気がしたんだが、気のせいか?

「なんでもない。本当に古いものだと思って見ていただけだ」
「そうか? それならいいが……なにかあったら言うんだぞ」
「はいはい、わかってるって」

 一瞬だったと思ったのに、ちょっとぼんやりしてたらしいな。だが、リュシオンがこう言うってことはこいつには聞こえなかったってことか……?
 改めて見下ろした地図には特になにもない。ただ俺の魔力に反応して、うっすらと青い光を帯びているだけだ。

「ありがとう。興味深かった。地名が書かれてないのが残念だ。見比べたら面白いだろうにな」
「ええ。それは僕も思いました」

 丁寧に元通り畳んで返しながら言うと、セネリオがちょっと笑って頷く。敵対していたころは特になにも考えていなかったが、俺とこいつは趣味というか感覚というか、似てるなと思う部分があるんだよ。
 こいつは冗談じゃないと言うかも知れないが、俺はいろいろと話してみたいなんて思ってる。

「ちッ、結局あとのことはまた考えなきゃならねえってこったろ。オレは飯を食いに行くぜ。昨夜からろくに食ってないんでな」
「あ、じゃあおれも行くっす! アイクたちはどうする?」
「俺は後でいい。鳥翼王たちもまだのはずだ」
「じゃあ私は携行食の補給に行って来るよ。いい干し肉が入ったって話を聞いたからね」

 ひとまずセネリオの話はここで終わったらしい。
 シノンとガトリーに続いてオスカーも出て、部屋には俺たちとアイク、セネリオだけが残った。

「さて、では鴉王。少し良いですか?」

 アイクはともかく、セネリオの方は飯のためにわざわざ残ったって感じでもないな。そう思ったら、案の定だ。

「なんだ?」
「化身できなくなったと伺いましたので」
「あぁ、……そのことか」

 まあ、訊かれるだろうと思っていたし、仕方がないか。
 立ち上がったティバーンとリュシオンが気遣わしげに俺とセネリオを見る。アイクは……べつに心配はしてないだろうな。いつもと同じ仏頂面だ。

「見た目では全くわかりませんね。自覚症状はなにかありますか?」
「いいや。あぁ、王者の腕輪の守護石の色が薄くなった程度かね。本当はもう少し濃い青なんだが」

 そう言いながら左の手首にある腕輪を見せると、セネリオはティバーンの腕輪と見比べてから「なるほど。鴉王の方は魔力が消えていますね」と頷いた。

「腕輪が原因ということはありませんか?」
「ないね。外してからリュシオンに勇武の呪歌を謡ってもらったが、効果はなかった」
「失礼ですが、まさか寿命ということは……」
「それはない!」

 身を乗り出すように否定したのはリュシオンだ。

「ネサラは健康だ! 病の匂いもないし、それは絶対にない!! 寿命だって、黒鷺の血が強く出ている分、普通の鴉より長い! そうですよね、ティバーン」
「あ、ああ、そうだな。普通の鴉なら俺たちより多少寿命が短いはずだが、ネサラは俺より長く生きるだろうよ」

 ティバーンと俺の方が気圧されるほどの迫力で俺とセネリオの間に立つと、リュシオンはもう一度激しく否定した。

「そうですか。では、やっぱり力を封じられてるのかも知れませんね」
「化身の力をか?」
「ネサラ、おまえ、やっぱり誰かになにかされたんじゃ…!」

 リュシオンの剣幕には動じず頷いたセネリオの返事にまたリュシオンが俺を振り返るが、今度はティバーンが押さえてくれた。
 それはいいが、なぜかティバーンにまで睨まれてる気がするぞ。
 だから、もうなにも隠してないって。まったく何回言えば二人とも信じるんだ? ………って、それだけ日ごろの俺の行いが悪いってことか。

「そんなもの封じたって相手に何の益があるんだ? 戦闘力を殺ぎたいなら、俺よりティバーンだろう」
「それはそうですが、鳥翼王を罠に掛けるのは難しかったのではないですか? その点あなたは隙がないように見せておいて、一度懐に入られると弱いようですから」
「………ケンカを売りたいなら買うぜ?」
「事実です。売ってもいないものを勝手に買わないでください。どこの高利貸しですか? ああ、失礼。実際に高利貸しを営まれてることもあったそうですね」

 見かけはガキの癖に、全く口の悪い…!
 なにか言い返そうとしたところで後ろのティバーンに噴き出されるわ、アイクはしばらくしてから「あ」って感じでこそっと頭を下げるわ、なんだか文句を言うのが莫迦らしくなって俺は鼻を一つ鳴らしてそっぽを向いた。

「とりあえず、レストの杖を使ってみましょう」
「高いんじゃないのか?」
「必要経費はクリミアに請求するのでしょう? 気にしなくても大丈夫ですよ」

 その辺りはちゃんとわかってるんだな。――ま、さすがだと言っておくかね?
 セネリオは壁に立てかけた数本の中からレストの杖を取って、俺の前に立った。

「目を閉じて、楽にしていてください」
「効果は期待してない。そっちこそ気楽にやりな」
「そうします」

 どうせ、なんの反応もないんだろうさ。
 そう思いながら軽く目を閉じると、すぐにセネリオの小さな詠唱が聞こえた。
 その詠唱が引き出した杖に宿る魔力が確実に俺の身体を覆っていく。さすがは大賢者だな。回復専門のその辺りの神官よりずっと早い。
 レストの魔力が、俺の力を封じている『力』を探してさまようような気配がある。
 俺は元々状態異常の耐性が高くて食らうこと自体なかったからな。レストも女神の塔で一度かけられただけだが、皮膚の下まで探られるような感触がどうも苦手だ。
 しかも、今回はやたら長い。

「セネリオ、大丈夫か?」

 なんだ…?
 珍しく心配そうなアイクの声にちょっと驚いて目を開けると、いつも冷静なセネリオの額に大粒の汗が浮かんでいた。表情も険しい。
 どうしたんだ?
 そう訊こうとしたはずなのに、俺の口は動かなかった。まるで石化でもしたように。

「ネサラ…? ネサラ!?」

 不味い。リュシオンに気づかれた。
 にわかに焦り出したリュシオンの様子でティバーンの顔色まで変わる。

「おい、どうした?」
「触るな! 魔道士が呪文を唱えている間は触ると危ないんだ」

 ティバーンが俺の肩を抱く寸前でアイクが止めて、俺は徐々に身体を締め付けてくる螺旋のように捻れた奇妙な魔力に息を詰める。
 くそ、なんだ…!?
 セネリオの使ったレストの魔力と、もう一つの妙な…歪な魔力がせめぎあってるのか?
 きし、と妙な音が聞こえた。

「!」

 セネリオの紅い目が見開かれる。音の出所は真新しいレストの杖だ。中心からひびが入って、そこから灰色を帯びた歪な魔力が漏れ出している。

「セネリオ、詠唱をやめろ!」

 こんな時は知識より本能だ。
 アイクが叫ぶのと、俺とセネリオの間で絡み合った二つの魔力が弾けるのとはほぼ同時だった。
 音にならない破裂音が響く。俺たちは揃って悲鳴も上げられずに吹っ飛ばされた。

「……サラ、ネサラ!」

 くそ、いてえ…!
 泣きそうに緊迫したリュシオンの声が徐々にはっきりしてくる。
 情けないな。気絶してたらしい。
 ゆっくりと目は開いたが、でもまだ声は出ない。
 ひんやりした手が俺の頬に触れる。やっぱりリュシオンだ。

「大丈夫か? どこか痛くねえか?」
「ティバーン、ネサラは声が出ないんです…! 私はまだ『快癒』の呪歌は謡えませんし、『再生』の呪歌は効果がなさそうです。セネリオも気を失ってるし、どうしたら…!」
「落ち着け。大丈夫だ」

 焦るリュシオンに俺の代わりにティバーンが言ってくれる。
 床か壁に叩きつけられたのかと思ったが、どうやらティバーンが受け止めてくれたんだな。
 抱えられた腕の中でなんとか視線を動かすと、同じようにアイクに抱えられたセネリオが見えた。
 …って、血が出てるじゃないか。くそ、どうなったんだ!?
 強引に動かそうとした指先が軋む。だが、痛みは俺にとってなんの妨害にもならない。
 骨が折れたって知るかぐらいの気持ちで強引に動かすと、薄い硝子が割れるような音がして俺の全身からなにかが剥がれ落ちた。

「あ…!」

 なんだ…? これは、レストの力か!?
 いきなり、どっと胸に大量の空気が入り込んだ感覚がして、俺は苦しくなった胸を押さえてしばらく息を整えるのに苦労した。

「ネサラ、大丈夫かッ? どこか痛いところは…!」
「俺より…向こうの軍師だろ。アイク、セネリオの様子はどうだ?」
「無理に立つんじゃねえ。手を貸せ」

 心配そうに後をついてくるリュシオンを無視してティバーンの腕から立ち上がると、俺はまだぐったりしたまま目を閉じたセネリオの傍らに屈む。
 顔色は悪くない。切ったのは杖を握っていた手と頬か……。
 見ると、辺りにはまるで中から爆ぜ割れたように散乱したレストの杖の残骸があった。

「俺のせいだ。すまない」
「鴉王のせいじゃない。俺も、もちろんセネリオもこんなことになるなんて思ってもいなかった。急所には当たらなかったはずだからすぐに目を覚ますと思うが……」

 言われてよく見ると、アイクの腕にも傷があった。杖の欠片が刺さったんだな。無造作に引き抜いたりしてなきゃいいが……後で見た方が良いかも知れない。
 ということは、もしかしてティバーンも怪我をしてるんじゃないのか?

「ティバーンは平気だ」
「そうなのか?」
「腕に二、三ヶ所刺さったようだけど、ティバーンは頑丈だから今さら少しぐらい傷が増えたって大丈夫だって言ったのはおまえだろう?」
「そ…れは、その通りだな」

 いや、俺が言ったのは「くたばったりしない」なんだが、これは黙っていた方がいい…のか?
 鼻の頭を赤くして今にもべそをかきそうなリュシオンがあんまり必死に俺の無事を心配するものだから、俺はなにも言えずにただ視線でティバーンの安否を確認した。
 確かに怪我はしたようだが、俺を見て力強く頷くところを見ると、まあ本当に大丈夫なんだろうさ。
 しかし、リュシオンは妙なところで順応力があるな。こいつ、本当に純粋な鷺なのか? その内羽根の色も変わるんじゃないかと思うぞ。

「黒でも茶色でも、どんとこいだ。鷺以外ならなんだって……」
「リュシオン」

 不味い。読まれた。
 悔しそうに唇を噛んだリュシオンになにか言おうと思ったが、それよりも早く短い息をついたリュシオンが首を振って続ける。

「――すまない。今はそれどころじゃなかった。アイク、医者を呼んだ方が良くないか?」
「大丈夫だと思う。……気がついたようだ」
「セネリオ! 大丈夫か!?」

 リュシオンの呼びかけにぴくりと瞼が震えて、紅い目が開いた。
 視線がぼんやりとしていたのは一瞬だ。すぐに焦点が定まって俺を見る。

「鴉王、……怪我はありませんか?」
「俺じゃなくておまえだろう。俺はなんともない。すぐに手当てするから、待ってろ。それとも杖使いを呼ぶか?」

 ぐったりしていても、口調はいつものままだな。
 アイクの手を借りて起き上がったところに訊くと、セネリオはゆっくりと首を振って血が滴る自分の手から興味なさそうに視線を外し、また俺を見る。
 ……見てる方が痛そうだから、少しは自分の傷に気を遣ってもらえないもんかね。まったく。

「やっぱり、効果はありませんでしたか」
「なかったわけじゃないだろう。少なくとも、おまえがレストを使ってくれたおかげで俺の化身の力が魔力で封じられていることだけはわかった」

 華奢な手に手巾を巻きながら言うと、無表情と言っても良かったセネリオの顔がむっとする。

「つまり、あなたの力を封じたのは僕より魔力が強い相手であると、そういうことでしょうか?」
「それは…どうなんだろうな。俺は魔法は専門じゃない」
「専門じゃなくても見当ぐらいはつくでしょう。……ベグニオンに行くべきかも知れませんね」

 そう言ってため息をついたセネリオの頬の血を、アイクが拭う。

「彼なら、あなたに掛けられた封印を解くことができるかも知れませんよ」
「…………どうだろうな」
「少なくとも、現在この大陸で彼以上の魔道の使い手はいません。試す価値は十二分以上にあるでしょう?」

 セネリオの言う人物……セフェラン、いや、エルランか? まあ馴染みのあるセフェランと呼ばせてもらうが、女神との戦いの後、隠居を希望したあいつはベグニオンがもう少し落ち着くまでってことでまだあの国に留まっている。
 今は大神殿マナイルの奥にいるらしいが……正直、あまり行きたい場所じゃないな。
 嫌な思い出が詰まってるからって避けて通れる場所じゃないことぐらい、自分でもわかってはいるつもりなんだがね。

「ネサラ、なんだったら私も行くぞ?」
「いや……いい。おまえは連れて行きたくない」
「でも」
「あの場所は、たぶんおまえには辛い。……俺も、おまえに見られたくない」

 心配そうに言ってくれたリュシオンに正直に言うと、一瞬緑の目を見開いたリュシオンが唇を噛み締めて頷いてくれた。
 言葉だけじゃない。たぶん、隠し切れなかった苦い思いが伝わっちまったんだな。悪いことをした。
 謝る前に白い手が俺の膝を優しく叩いて、そっと視線を向けた先で、リュシオンは笑ってくれた。

「力を失った今でさえ、そこに滞った悲しみに祈らずにはいられない。……彼もそう言っていましたよ。では、どうしますか?」
「俺が行こう」
「ティバーン……」

 セネリオの言葉に俯いた俺を励ますように力強い声で言われて、俺は正直、戸惑った。
 だって、なにを言ってるんだ? リュシオンがここにいる以上、俺たちが揃って離れるなんてできっこないだろ?

「こいつを一人にするのはどうも心配でいかん。それに、二手に分かれた方が探りやすいだろうしな」
「……確かにそれはそうですが、大丈夫ですか?」
「おう。なに、まあ俺個人の都合もあって、もしかしたら途中でセリノスに帰らなけりゃならねえかも知れねえしな。もしそうなりゃ、ヤナフと交代するさ」
「あんたの都合? ……そうか、忘れていたが、王だったな」
「おい、忘れるなよ」

 アイクのしみじみとした声に呆れながら、ティバーンは「な?」ともう一度俺を見た。
 いや、勝手に話を決められるのは困る。それにあいつに会ったところで本当に効果があるかさえわからないのに。

「決まりですね。それでは僕は失礼して傷の手当をさせていただきます。その後はアイクと鳥翼王にライブの杖を使いますから、それまで出発はお待ちください。食事の時間も必要でしょう?」
「ん?」
「さっきから豪快な腹の音が気になって仕方ないんです。まったく、鳥翼王とアイクが揃ってなんですから、我々が空腹で夜襲を仕掛けるのは自殺行為ですね。あっという間に敵に気づかれてしまいます」
「そりゃ、違いない」

 ばつが悪そうに頭を掻くアイクとティバーンを尻目に、俺とリュシオンはひとしきり笑った。
 不安が消えたわけじゃない。それでも、こうして笑えば少しはそれも和らぐ。……ような気がする。
 アイクやティバーンのやり方は乱暴だからな。俺がセネリオの手当てをして、それからライブの杖を使って、空腹のあまり口数まで少なくなったティバーンとどことなく覇気のないアイクを屋台の並ぶ大通りに連れ出すと、一瞬で二人の姿が消えた。
 それはもう、遠くで俺たちを見つけたシノンとオスカーが呆れてこっちへ戻ってきたほどの勢いだった。

「おいおい、あいつらなにやってんだ?」
「食事ですか? 屋台の料理も良いですが、食堂もありますよ」

 シノンは腕に絡み付いてた黒髪の美人を振り払って、オスカーは両手に余るほどの食材を抱えていつもの笑顔だ。

「ガトリーは?」
「あいつは昨夜の女に呼ばれてまたしけこんでるぜ。どうせまた有り金ふんだくられてんだろ。オレはもうどっちも満腹だ。それより、なにか食いたいものはねえのかよ?」
「いや、俺はべつに……。リュシオンとセネリオは?」
「私は朝食をしっかり食べたからな。せっかくだから見て回って決めようと思う。それより、ネサラはきちんと食べるんだぞ」
「そうですね。僕もお腹は空いてません。アイクと鳥翼王は放っといても問題ないでしょうが、あなたはあまり食事に重きを置いてなさそうですし、栄養のことも考えてメニューを決めた方がいいでしょう」

 うっ、薮蛇だろ。
 生き生きと屋台を見回すリュシオンの後をついて歩きながらセネリオと並ぶと、この軍師も俺のことをどうこう言えねえな。
 立ち止まって勧めてくる料理は小さな亀の肉と生き血、小さな虫をぎっちり煮詰めた郷土料理、山羊の乳に蛇の血を絞ったものと、かなり際どいものばかりだった……。

「おい、どうしてそう生き血の入ったものにこだわるんだ? せめて普通の串焼き肉とかにしてもらえないかね?」
「生き血には貴重な栄養素が含まれているんですよ。あなたは少し貧血気味でしょう? それに、弱っていたんですから尚更です。それにあのコオロギの佃煮にも弱った身体には非常に有効な栄養素が含まれているそうで……」
「そうなのか? よし、それなら私が」
「リュシオンは食べなくていいッ! オスカー、なんか見繕ってくれ!!」
「はい。王子、ここは女性のいる店に向かう男たちに活を入れるための料理が多いのです。あちらの屋台でしたら私のお奨めのものがいくつかございますよ」
「私も気合を入れたいのだから構わないと思うのだが……そうか。まあオスカーの勧めるものなら楽しみだな」

 またいらん勇気を見せたリュシオンを慌ててオスカーに押し付けると、俺は未だに自信満々の表情で俺を見上げるセネリオを前に頭を抱えた。
 ……人に勧めるならまず自分が食えって言っても、こいつの顔を見ていると本当に平気で食いそうだし、さあ参った。
 いや、俺も貧しいキルヴァスの出だ。食おうと思えばなんだって食える。
 ただ、選べる時にまで食いたくないというか、現実問題として生き血は匂いも苦手で、飲むのは良くても後で全部戻す自信があるから問題なんだ。
 ほかにも郷土色満載、精力万歳なものがいろいろと並んでいて、気温のせいじゃなく、背中が寒い。いっそ物陰に走って逃げて翼を出して逃げるか? そこまで考えた時だった。

「ついてきな」
「シノン? どこへ行くんです?」
「へっ、坊ちゃんの食えそうなもんなんざ大体決まってるだろうが。おまえに任せといちゃ、こいつは昼飯まで食いっぱぐれちまう」
「でも、僕は鴉王の身体に一番必要な栄養を考えて言っているんですよ。嗜好にのみ合わせて、まさかそれが一番だなんて言うつもりですか?」
「うるせえな。無理に食わせても後で吐かれたら余計に消耗させるだけだろうが。面倒くせえんだよ。あんたも食いたいもんは自分で決めろ。うちの団長だの鳥翼王だのみてえにがっつくのもどうかと思うけどよ」
「それは……そうだな。すまない」

 そんなことを言われても、俺は元々食欲旺盛な方じゃないからなにも思いつかないんだが。
 とりあえず素直に詫びると、シノンはまた鼻を鳴らして行き交う人々の向こうからしきりにこちらを気にするオスカーの方へ歩き出した。

「まったく、シノンはいつまでも変わらなくて困ったものです。仕方ありませんね。行きますか?」
「選択権はないんじゃないか?」
「………ありませんね」

 それは向こうも思ってるだろうな。
 そこは黙って肩を竦めたセネリオにおどけて言うと、セネリオは少し考えてから生真面目に頷く。
 本当はせっかく政治の話ができる相手と合流したところだ。だからデインの国情についてももう少し突っ込んだ話をしたかったんだが、それは後だな。
 面倒そうに、それでも時々俺たちがはぐれていないか振り返るシノンの背を追って、俺たちは時に強烈な匂いを放つ屋台の前をいくつも通り過ぎた。



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